草加せんべいの歴史
手前どもいけだ屋は、正確にはいつからかは分かりませんが、もともとは参勤交代でにぎわう奥州街道草加宿の街道沿い(現在本店のある旧日光街道を挟んで反対側)に“おうめだんご”という屋号で、茶店を営んでおりました。
草加せんべいの起源は非常に古く、数百年前にさかのぼると伝えられていますが、その発祥は「おせん」という老婆が、あまっただんごを焼いたことにはじまるとされています。以来、草加は二合半領という穀倉地帯でできる、良質な米と天然の良水(いまでもいけだ屋は草加唯一の天然地下水利用可能許可工場です)に恵まれ、さらには江戸川流域での醤油の誕生とが重なって、その名を全国に知られることになりました。
当店の初代相澤岩吉の随時所感的な日記(残念ながら平成7年2月火事のため焼失)によると、江戸末期の慶応元年(1865年)に「せんべいを主とした商いに移行する」と記されておりました。この年を手前どもはせんべい屋の創業と考えております。
岩吉は、浅草の商家から池田国蔵を養子に迎え入れ、そのまま池田姓を名のらせました。以降、屋号を二代目国蔵より“いけだ屋”と変更し、現在の基礎が確立しました。国蔵は、街道筋の小売にあきたらず、いちはやく東京という大市場に目を向け、せんべいの生地の卸出荷をはじめました。
大正12年9月の関東大震災で、被災者が数多く出ました。さいわいいけだ屋は被災を逃れましたが、米蔵にあった米をすべて炊き出しに使い、店の前を行き交う被災者の方々に無償でおにぎりを配った、という国蔵の逸話が文献に残っています。
三代目岩松は、晩年は県議・市長を勤めた人ですが、この人がいたからこそ“草加せんべい”が全国的に有名になったといっても過言ではないでしょう。岩松は、昭和7年に市内に200軒以上もあったせんべい屋を束ね、草加せんべい商組合を結成し、「草加せんべい」の意匠登録を行い、昭和16年には草加せんべい有限会社を設立しました。
しかしその後、日本は第二次世界大戦に突入し、昭和19年には、せんべいなど米を使った事業すべてに、強制廃業命令書が出されてしまいました。その後、昭和26年に委託加工が許可されるまでの7年間、いけだ屋をはじめ草加の街には一軒もせんべい屋が存在しませんでした。過去100年以上の歴史をもついけだ屋がその事業を断たれたのは、後にも先にもこの戦争を挟んだ7年間だけです。
しかし、この7年の空白は「草加せんべい」の意匠登録を妨げ(戦後は法改正のため地名を使った意匠登録は不許可)、以来、今日まで「草加せんべい」の名称は全国的に使用可能なものになり、手前どもとしては皮肉なことではありますが、結果的にはその知名度を高めることに大いに役立ちました。
手前どもいけだ屋は、本場草加せんべいを自負し、どこにも負けないお客様に喜んでいただける商品を、これからも作り続けてまいります。
平成16年8月吉日 いけだ屋